• 松永窯

    松永和夫

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    直胴型の器の外側に対し、一回り小さく挽いてくびれをつけた内側を組み合わせることで二重焼の仕込みとなる。この複雑な構造が熱い湯を冷めにくくする反面、熱さをほとんど感じることなく湯飲みが持てる実用性をあたえている。半乾燥させたあと、ハートのような形の千鳥を削り、刷毛で波を描いて“波間に浮かぶ千鳥”を表現。この模様も大堀相馬焼ならでは。

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    粘土と釉薬の収縮率の違いから、焼成すると高音の美しい音を立てながら貫入となって表面に現れる「青ひび」。墨汁をこすりつけることでひび割れに墨が入って、個性的な表情を作りだす。

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    20歳から大堀相馬焼の仕事に従事してきた和夫さん。ろくろ仕事は職人がつとめ、自身は焼きや走り駒の絵付けを担当してきた。避難先である那須から毎日通っている。

  • 若い力が窯元の“縁の下の力持ち”に

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     「土や材料があるのが当たり前で、伝統が続いていくのが当たり前と思って何も考えずに作り続けてきたから、浪江を離れて改めて、大堀相馬焼の良さを知ることができた」と話すのは卸問屋として明治43年に創業し、製造も手がけてきた『松永窯』の3代目・松永和夫さん。大堀相馬焼は福島県浪江町の大堀地区一円で作られてきた焼物。江戸初期からはじまり、相馬藩の保護と奨励を受け、江戸後期の最盛期には100軒以上の窯元を数え、東北の焼物の一大産地として発達してきた。
     地元で育まれてきた大堀相馬焼を取り巻く環境が一変したのは東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の発生。25軒ほどあった窯元は県内外に離散。廃絶の危機に直面した。後継者がいなかった窯など半数以上の窯元が廃業を決める中、松永さんが西郷村に窯を移して再開する大きな後押しの一つになったのは、息子の武士さんの存在。
     震災当時、海外にいた武士さんは日本に戻って商品企画や営業のサポートしてくれるようになった。そして、若手アーティストやクリエイター、甚大な津波被害を受けた宮城県石巻市の雄勝硯などとコラボレーションして、次々と新商品を開発。国内の展示会でPRを行って新規販路開拓を行うなど、窯の再開直後から新しい取組を行ってきた。松永さん自身は、浪江町の土を使用しての作陶ができない中、本来の大堀相馬焼に近づけようと試行錯誤を繰り返し、原材料の研究を続けている。
     大堀相馬焼の特徴は大きく3つ。器全体にひび割れの様な地模様が入る「青ひび」、相馬藩の御神馬をあらわした「走り駒」、内と外2つの器を組み合わせて空気が入る層を作る「二重焼」だ。他産地では見られない個性があり、その分手間もかかる。「はじめてみた時は工程の多さに驚きました」と話すのは、技術の伝承と後継者育成を目的として平成30年に着任した、地域おこし協力隊の吉田直弘さん。京都の大学在学中に松永窯へインターンシップに訪れたことがきっかけで、卒業後、戻ってきた。吉田さん以外にも、現在2名の地域おこし協力隊が松永窯と白河市内で窯を再興した錨屋窯を行き来し、大堀相馬焼の技術の習得とPR活動を行っている。ろくろに向かってスルスルと手際よく器を作り上げていく姿を見ながら、「吉田くんはすごくうまい」と目を細めて嬉しそうに話す松永さん。窯の再開以降、様々な復興支援のプロジェクトや既存客からの注文で、毎日忙しい松永窯をサポートしてくれる、心強い存在。「震災から7年以上経ち、支援を名目とした仕事はこれからどんどん少なくなると思う。その時が本当の勝負。唯一無二の大堀相馬焼を忘れてもらいたくないから、元気なうちは頑張らなきゃね」。後進の育成にも力を入れながら、今日も前を向いて歩みを進めている。