• 新田

    新田源太郎

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    7月上旬~中旬にかけて咲いた紅花の花弁を摘み取り、水洗いして黄色い色素を洗い流した後、発酵。臼でついて団子状にしたあと煎餅状につぶして乾燥させた紅餅(花餅)。赤い色素をより多く抽出できるため江戸時代から紅餅に加工して出荷されていた。 

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    紅餅を水に浸し、灰汁を入れてアルカリ性にすると赤い色素が溶け出してくる。梅の実に煤をまぶして燻製にした烏梅(うばい)と米酢で発色させてようやく染めにうつることができる。冬の季語で“寒紅(かんべに)”という言葉があるように、1~2月の冬の寒い時期が紅花染に最も適した季節。 

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    織りたいものや表現したいものによって手織り機と機械織機を使い分けている。 

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    絹糸を手紡ぎする際に出る細かな真綿を再び糸に撚り合わせた、新田オリジナルのあたたかな風合いの糸を手織りしたストール。

  • 紅花から始まった染めの歴史

    奏で続ける華やかな織機の音

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     米沢都市景観賞にも選ばれる、築90年以上の趣ある日本家屋の中から聞こえてくるのは、心地いいリズムを刻む織機の音。色とりどりの糸や織りの道具に囲まれた環境で育ってきた5代目・新田源太郎さんが家業を継ぐのは自然な流れだった。『新田』は明治17年創業。武士だった新田家初代が上杉景勝とともに越後から米沢に移り住んだあと、新田家16代目の留次郎が袴地を織る機屋の初代として創業したのが始まり。〝米沢袴と言えば新田〟と言われるほど、全国各地にその名を轟かせた。
     袴地で有名だった『新田』の名がより広く知られるきっかけとなったのは紅花染の復活にある。山形は古くから紅花が栽培され、江戸時代には全国一の出荷量を誇った一大産地。収穫された花は紅餅に加工して出荷され、京都へ。染料や化粧品の原料として重宝されていた。しかし明治初期には外国から化学染料や安価な紅花が入ってきたことで一気に衰退し、ほどなく姿を消してしまったという。そんな中、源太郎さんの祖父母にあたる3代目・秀次さんと富子さんが、紅花に目をむけるようになったのは昭和38年頃のこと。明治以来100年以上技術が途絶えていた紅花染の技術を復元しようとしていた研究者と出会い、幻となった紅花染の美しさに魅せられて、夫婦で研究にのめりこんで技術を確立したという。「紅花染に本格的に取り組むようになったと同時に、藍や栗のイガ、梅の枝など多彩な草木染にも着手したことで、糸染めから織りまで一貫して行う、今日の会社の姿が生まれたんです」と源太郎さんは教えてくれた。
     3代目が心血を注いで再興した紅花染の技術は独占するのではなく、教えを求めた人たちに指導したことで、米沢市はじめ県内各地に広がり、今や山形県を代表する染織技術となった。「先代たちは皆それぞれ新しいことにチャレンジして歴史をつないできました。私も新しいものづくりや表現に取り組むのはもちろん、米沢織や紅花染、山形のことをたくさんの人に伝えていくのが自分の使命だと思っています」と話す源太郎さん。手に取りやすい小物類のラインナップの充実やストールなどを展開する新ブランド『モンターニャ・ディ・ニッタ』を立ち上げ、ファブリックとしての絹織物の可能性を追求。先代たちに倣い、米沢織の若手後継者の中心として、他工房へ織りのアドバイスも行うなど織物産業の底上げに努めている。伝統を守りながら、いつの時代も忘れない挑戦が『新田』には息づいていた。