• 二唐刃物鍛造所

    吉澤剛、花村英悟、丸山敦史、吉澤周

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    右から弟の吉澤周さん、吉澤剛さん、地域おこし協力隊の花村英悟さんと丸山敦史さん。花村さんは弘前に来る前から趣味で耐火レンガを組んだ自作の炉で火をおこし、鎌やナイフなど作っていたという筋金入りの鍛冶仕事好き。一方の丸山さんは時計の修理など全くの異業種からの転身。「花村さんは即戦力に、丸山さんの技術は、今後会社が手がけていきたいと考えているフォールディングナイフなど複雑な構造を持つ商品づくりの力になる」と剛さんが確信して採用を決めた。

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    自作の鎚を使い、型見本に合わせて少しずつ包丁の形に薄く鍛造していく花村さん。「先人たちが作り上げてきた技術を継承しながらも、より効率的で伝承していきやすい形にできるよう模索していきたい」と意気込む。

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    凹凸があると錆が出やすくなるため、徐々に目を細かくしながら水研ぎし、刃をつけていく。『二唐刃物鍛造所』では鍛接から柄つけまですべての工程が手作業で行われ、刀作りの技術を活かした丈夫で鋭い切れ味が自慢の包丁を作り上げている。背面には“ 攻める”の字が。

  • “攻める”の文字にこもった覚悟

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     鍛冶場の火床(炉)で赤々と熱せられた鋼を打ち鍛えているのは、津軽藩から作刀を命ぜられて以来、350年続く歴史を誇る『二唐刃物鍛造所』の8代目・吉澤剛さん。平成23年から7代目である父・俊寿さんを師に、代々続く作刀の技術を活かした刃物作りを学んできた。


     「家業を継ぐことは宿命だった」。後を継がなくてはいけないという思いを持ちながらも、東京の生活に憧れて営業などさまざまな仕事をしていた剛さん。そんな時、6代目の大叔父は亡くなる前に剛さんの両親を呼び「剛さんを手元で育てて後を継がせるように」と遺言を残した。剛さんは当時のことを「あぁ、ついにこの時が来たかと思いました(笑)。正直逃げたい気持ちが半分、覚悟を決めなきゃという気持ちが半分」と振り返る。父のもとで修行を重ねると同時に、海外の展示会への出展などにも立ち会った。そこで身をもって感じたのは、薄くて切れ味のいい日本の刃物作りに対する海外の評価の高さ。徐々に心の葛藤は打ち消され「津軽打刃物の歴史を自分で途絶えさせることはできない。もっと認められる刃物をつくりたい」と技術の習得に打ち込んでいったという。鍛冶場に入ってから5年が過ぎたころからは刃物事業のほとんどを父から託されるように。
     

     直後から大きな課題になったことは、作ることと売っていくことの両立。需要があっても注文に対応しきれないことで、一人で仕事をすることの限界を感じていた。そんな剛さんのもとに転機が訪れたのは平成30年のこと。弘前市との協業で地域おこし協力隊の制度を活用した後継者育成プロジェクトがスタートし、県外から2人の若者が『二唐刃物鍛造所』に入った。さらに同年、後を継いだ剛さんの葛藤を間近で見ていた弟の周さんも、兄を支えるべく高校卒業後すぐに鍛冶修行の道へ。10代から30代という若い力で刃物事業に勢いが増した。
     

     4人が日々仕事をする鍛冶場に足を踏み入れると真っ先に目に入ってくるのは、壁に貼られた〝攻める〟の文字。平成最後の年に剛さんが書いた書初めだ。「3人が入ったことで、生産体制は3倍以上に。でもその分、刃物だけでしっかり4人分の利益を出さなくてはなりません。他産地と比べると津軽打刃物の知名度はまだまだ。伝統的な刃物の質をさらに高めて〝本物〟を追求していくのはもちろん、まとまった注文のニーズにも対応できるような生産体制も整えて、使う人から選ばれる土俵に立ちたいんです」。後継者を育て、さらに進化する打刃物を追求する8代目の覚悟が〝攻める〟の3文字から感じられた。